人は「ないものねだり」をしてしまうのでしょうか。
最近(2021年2月現在)、海外の様子を聞いていると日本の文化に憧れる人がどんどん増えているようですが、日本の人々は、欧米への憧れを強めている様に感じます。
日本の人々が、欧米に憧れているのと感じるのは、新しく生まれる言葉を見るとよくわかります。
例えば、
- サスティナブル・SDGs
- アジェンダ・コンセンサス・エビデンス など
確かに最先端のイメージがあるかもしれませんが、それぞれ中身は従来から日本にある概念です。
けれども、注目が集まりやすいIT技術関連は、Apple社やGoogle社などがリードしてきましたから、欧米から多くの事を学ぼう!という風潮が強いのでしょう。
じゃあ、何で欧米の人は今更日本の文化に憧れているの?
そこで、今日は、
を紹介します。
結 論
次の2点が日本文化の見落としがちな大きな特徴です。
- 基本的に上下関係のない人間関係・社会
- 学んだことは自然界と同じ様に活用する
それぞれどういうことなのか、詳しく解説します。
【日本文化の特徴】基本的に上下関係のない人間関係が根底にある
もともと、人間関係に上下関係がないと言うと、
- 武士が威張っていたし、一般庶民は苦しい生活をしていた
- 女性に選挙権が与えられたのも近代に入ってからだ!
こうした意見もありそうですが、制度としての上下関係と暮らしとは少しギャップがあった様です。
武士の食事も庶民の食事も大きな違いはなかった
学校の歴史の教科書で勉強したイメージだと、江戸時代の武士は大威張りで、庶民はとても苦しい生活をしていたと理解している人も多いのではないでしょうか。
ところが、武士も庶民の食事には大差がなかったと言われています。
もちろん、武士と言っても様々な階級があり、徳川将軍も様々ですから一概にこうだ!ということはできませんが、基本的には質素だったと言われています。
上の位の武士の食事も
これが基本の食事なので、偉い人だからと言って、豪勢な暮らしをしていた訳ではなさそうです。
確かに江戸時代は、身分制度がありましたが、
- 武士の役割
- 農民の役割
- 男性の役割
- 女性の役割
こうした考え方が中心にありました。
穢多(エタ)・非人(ヒニン)と呼ばれ、強く差別をされてきた人々もいたようですが、彼らの中にもかなり豊かな暮らしをしていた人も見られました。
さらに、江戸時代の日本の識字率の高さに海外の人は驚いたとよく言われます。
幕末には、70%〜80%ほどの子ども達が、寺子屋に何らかの形で通っていたとされています。
つまり、役割分担としての階級制度はあったものの、他者の行動を排除するような制度ではなかったことが見えてきます。
農民だから「おまえらは勉強するな!」という考え方じゃないってことだよね。
農民としての役割を果たすのなら、勉強をしてもいいじゃないか!って感じだね。
こうした考え方が根底にあったのは、
です。
ヨーロッパは厳しい階級があり、階級によって暮らしが大きく異なる
一方、当時のヨーロッパは、貴族の食事と庶民の食事にあまりにも大きな違いがありました。
特にイギリスでは、地面になるものは下級の人が食べるものという考えがあり、貴族は野菜を食べることは少なかったようです。
貴族の食事 | 毎食、たくさんの肉を食べる |
庶民の食事 | パン・少量の野菜・チーズ |
この様にヨーロッパの人々の暮らしに大きな違いが生じた原因は、厳しい階級制度と厳しい自然です。
地域によっては奴隷制度もありましたが、これらの考え方が誕生した根底には、
というところに意識があったためだとも言われています。
自然を制しようとする考え方が、やがて人を制するという考え方になり、また、大陸なのでその考え方が広まり易かったということも影響したと考えられています。
では、日本文化の発展の原点となった「自然と共に生きる」をもう少し詳しく見ていきましょう。
【日本文化の特徴】自然のあり様から生き方までも学ぶ
自然のあり様から生き方を学ぶというのは、「宗教との関連や生活をより良くしよう」という発想が原点となります。
例えば、プラスチックなどが無かった時代に、「液体を運ぶにはどうすればいいか?」こんなことも人々の課題の一つでした。
古くは、木をくり抜いて容器を作っていましたが、加工のしやすい杉を使えば板を張り合わせることで液体がこぼれない容器が作られるのではないか?という考えが出てきました。
これには、杉の性質を熟知しなくてはいけませんが、杉の柔らかい部分・硬い部分の性質を見極め、独自の道具を作り、板を張り合わせて桶を作る技術が確立されました。
動画の通り、一つの桶ができるまでの工程は大変でありますが、大変だからこそ、人々は自然に感謝し、作ってくれた職人に感謝する気持ちで桶と接してきました。
自然と共に過ごしてきたからこそ、一本の杉が大きく成長するまでの時間、板になるまでの時間なども職人でない人も肌で感じていたのだと思います。
この感謝の気持ちは、私たち日本で生活する者にとっては当たり前かもしれません。
ところが、
のです。
そもそも、自然に感謝するという概念がないために、「いただきます」に該当する言葉がありません。
もちろん、私たちだって忙しい日々、「いただきます」を形式的に言っているだけのこともありますが、子どもには「食べ物があることに感謝するって意味」ということを必ず伝えるはずです。
こうした、小さな習慣が、日本文化の原点となっているのです。
また、海外から日本に来られた方は、
とも言われます。
それは、適度な距離感で道を上手に譲ってくれるということで、これも「自分だけ」という感覚ではなく、「自分が今あるのは周りの人や自然の恵があるから」という感覚が身に染み付いているためです。
この感覚に今、世界の多くの人が憧れているのです。
【近年の課題】合理的な考え方から肩肘張らない生き方へ!
確かに、近年の欧米の技術は素晴らしいもので、私もその恩恵を日々受けています。
ただ、あまりにも合理性を追求すると、不合理な部分を見落としてしまう気がしてなりません。
不合理な部分なので見落としても問題ないかもしれませんが、自然も人もかなり不合理な部分があるから楽しく生きられている気がします。
例えば、上の様な果実。
毎年たくさんの実をつけますが、そのほとんどはどこに行ってしまったか分かりません。
もちろん、新しい芽を出すものなんて極めて少ないですから、不合理極まりありません。
けれども、鳥や人間が食べて喜ぶこともOK!という理解を彼らはしている気がします。
最近の私たちの暮らしはどうでしょうか。
住まいの視点で見ると、光熱費が○%抑えられるなどの話がついつい多くなり、自然と分断した住まいに注目が集まりがちになっています。
便利な道具・機械がたくさんあり、生活の多くはサービスで賄われるようになりました。
ところが、子ども達は、
- 学校でミニトマトを育てれば一粒のミニトマトも大切に味わいながら食べます。
- 収穫のタイミングを逃した大き過ぎるオクラだって、美味しい!と言って食べます。
そんな様子を見ると、便利さや快適さだけのために、大きく自然と分断した住まいで暮らすことは、寂しい様な気がします。
暮らしの中に自然が存分に感じられ、ちょっとしたことは自分でやってみよう!と思える住まい・空間で過ごすことを大切にしたいと思います。
「自分でやってみる」って言うのは、簡単ですが、最初は何でも失敗します。
ただ、この失敗するってあたりが肩肘張らない感じがしていいなぁと思うのです。
最後までお読みいただきありがとうございます。