我が子の成長は親にとって嬉しいものです。
ついつい写真を撮って、その姿を残そうとしてしまいます。
今はカメラを取り出さずとも、スマホや携帯電話でも写真が撮れる便利な時代です。
自ずと撮影枚数が増え、自分でもいつ何を撮ったのか忘れてしまうほどではないでしょうか。
これらの写真、あなたはどのように保管していますか。
データをただ保存して終わりなんてことになっていないでしょうか。
それなら、写真を撮る意味がないじゃないか?
こんなことを感じた方もいらっしゃるかもしれません。
では、写真は私たちにとってどんなものなのでしょうか。
そして、私が行っている写真の残し方についてご紹介したいと思います。
子供が生まれたら写真の量がすごいことに!
現在4歳の娘が生まれるまでは、写真を撮るといえば旅行に行った時くらいだった私達夫婦。
撮った写真もほったらかしで、見返すこともほとんどありませんでした。
それがどうでしょう。
娘が生まれる半年前にはカメラとビデオカメラを買い替え、準備万端整え、撮る気満々の親バカ誕生です。
そしていざ生まれてからは、毎日のように娘の姿をカメラに収めていったのです。
娘が1歳の誕生日を迎える頃には撮影した写真の枚数がとんでもないことになっていました。
見返すのも大変で、目的の写真を探し出すのに四苦八苦する始末です。
このままではまずいと思った私は考えました。
そしてたどり着いた結論は「誕生から1歳までを一冊のフォトアルバムにする」というものです。
誕生のその日から1歳の誕生日までの365日を一冊のアルバムにまとめました。
作業は至って簡単です。
編集ソフトをダウンロードして、撮影した写真のデータをパソコンに取り込む。
あとは写真を選んで好きなようにレイアウトしていけばいいのです。
パソコンでの作業完了後、約一週間程度でアルバムが届きます。
アルバムを見たら、あの時その時の空気や匂いまで伝わってきた!
届いたアルバムを開いて見ると、そこには真っ赤な顔でしわくちゃだった小さな赤ちゃんが、自分の足で立ち上がるまでに成長した姿がありました。
一年間分の成長をその一冊を見れば良くわかるのです。
そしてそのアルバムを見ながら、私はあることに気付きました。
例えば、病院の分娩室で出産直後に撮った写真。
ベッドの上で、生まれたばかりの小さな娘を胸に抱いてカメラに目を向ける自分が写っています。
私はその写真を見たとき、そこには写っていない分娩室の様子を思い出したのです。
小さく生まれた娘の体重を伝えてくれた看護師さんの声や、隣で涙を流していた夫の顔、お疲れさまと言って手を握ってくれた母のぬくもりをです。
スマホやカメラの画面だけで見ていては、決して思い出さなかったことなのです。
写真を撮るということは、単にその一場面を記録として残すということではなく、その写真を撮ったときの記憶を残すことなのだと気づいたのです。
人の後ろに写っている景色が、更に記憶を呼び起こしてくれる!
もうひとつ気づいたことがあります。
それは、被写体の人物の背景に写りこんでいる風景が、更に記憶を呼び起こしてくれるということです。
娘が生まれてから3ヶ月くらいまではあまり外には出ず、家で過ごしていたので、写真も自宅で撮ったものばかりでした。
リビングや寝室、お風呂場なんて写真もありました。
それらの写真を見ていると、当時住んでいた家のことを鮮明に思い出す。
転勤族の我が家は、同じ家に長くても4年ほどしか住みません。
ですから、家そのものの記憶は時間の経過とともに薄れていきます。
ですが、写真に映った、窓際だけ色があせてしまった畳や、娘がいたずらして剥がしてしまった壁紙なんかが映った写真を見ると、当時直面していた育児の喜びや悩みを思い出すのです。
写真は写っている人物の様子だけでなく、その時の環境や気持ちをも残してくれると気付きました。
娘が誕生日を迎える度に一冊ずつ増えていく、我が家のフォトアルバム。
それは単なる成長記録ではなく、家族の歴史そのものなのだと思います。
ですからなるべく家の中でも写真を撮るようにしています。
娘が将来、移り住んだ家の様子を見返すことで、幼かった頃の記憶を胸に呼び起こすことが出来るように。
もし持ち家に住んでいたら、毎年柱に身長を記録して写真に撮りたいところですが、賃貸住まい故、残念ながら叶いません。
あげても、もらっても嬉しいフォトアルバム!
娘の誕生日以外にも、フォトアルバムを作ることがあります。
例えば、私や夫の両親と親子三世代で旅行をしたときの写真をアルバムにし、両親にプレゼントしました。
普段なかなか会えない孫の写真をアルバムという形でプレゼントしたところ、とても喜んでもらえました。
両親は趣味の集まりなんかに持参して、孫自慢してくれているようです。
もう一冊は夫へ贈りました。
結婚してもうすぐ12年になりますが、丁度結婚10年を迎えた時に、10年分の写真を一冊にまとめプレゼントしたのです。スイートテンダイヤモンドならぬ、スイートテンアルバムです。
「お互い老けたな」という感想でしたが、喜んでくれたことは分かりました。
最後は私がもらったアルバムです。
今年の4月に夫の転勤で、3年半過ごした東北の地から大阪へと引越しました。
最初は頼れる親戚も友人もいなかった私が、娘を1歳から4歳まで育てることができたのは、そこで出会った友人たちのおかげです。
その土地を離れるときはとても辛かったです。今までの引越しの中でも群を抜いて離れ難かった土地です。
最後の別れの日、友人が一冊のフォトアルバムを手渡してくれました。
出会ってからの3年半が凝縮された一冊です。
娘の手前、別れの涙を必死に抑えていた私ですが、そのアルバムを見た瞬間、涙腺が決壊しました。
こんなに嬉しいプレゼントは他にありません。
何年経ってもこのアルバムを開く度に、3年半の東北での日々と、このプレゼントを貰ったときの気持ちを思い出すことでしょう。
これからも、撮った写真をアルバムにし、愛おしい日々の積み重ねを記憶に留めていきたいです。
体感したことは、誰もが深い記憶に残すもの
私の生活、写真に対する考え方を伝えてきたのですが、大切なのは写真の整理術やフォトアルバムの活用ではありません。
写真はあなたの深いところに刻まれた記憶を呼び戻す道具にすぎないということです。
例えば、
蝉の鳴き声を聞くと、夏休み暗いうちに起きて蝉が羽を広げる瞬間を見たという経験を思い出す人もいることでしょう。
また、たくさん蝉を捕まえようとして、おしっこをかけられた!ってこと思い出す人もいるはずです。
しかも、こんな話をしていると、あのおしっこをかけられた時の皮膚感覚まで蘇ってきますから不思議なものです。
(実際は、おしっこではないそうですが、私たちはそう呼んでいました)
つまり、豊かな体感があってこその写真であったり、蝉の鳴き声だったりするのです。
反対に、体で何かを感じる機会が少ないと、どんなに素晴らしいツールを使っても心に響かないということになりそうです。
こちらの記事にも書きましたが、
私は子どものためのおやつもできる限り手作りをするようにしています。
毎回、おやつを娘と一緒に作るなんてことはできないけれど、オーブンから漂ってくる甘い香や、時にはしまった!と叫ぶ私の声も娘の記憶に深く刻まれているはずです。
ふと、そんな事を考えると、
近年はあまりにも忙しく、画面で見てものの良し悪しを決める。
誰かが調査したデーターを見てどうするのかを決める。
そんな機会がどんどん増えて行っているように思うのです。
それは、時代の流れなのかもしれませんが、自由に使える時間は、自分の体で思い切り感じるということを大切にしたいものです。